ysnの自由雲日記

自由雲の日記

利休忌と形式

きょうは利休忌なので、さらっとお茶をたてる。
へうげもの、の連載もいよいよ秀吉との関係が悪化していくところでどきどきもの。古織の暴走も行き着くところまでいっているが、今に残されたうねうねとした織部焼をみると、この漫画つくづくよく描写できているなと思う。

そして映画千利休の脚本を赤瀬川原平が書いていたことを、千利休無言の前衛、という本でしる。
お茶も利休のわび茶は前衛であったがいつの間にか、形式を追いかけることが主体となり、形式にはまる心地よさを追いかける人が多数派となり、前衛ではなくなると。
前衛という大げさなことばではなくとも、日常はつねにまず型を覚え形式にはまり、それから自分のやり方を追求していくことが大切だ。形式だけが残るのはおかしく中身はおのずと自発的変化をもとめ、それにあわせて形式を変えなければならないという当たり前のことを夏目漱石が私の個人主義という講演集でいっている。この本では道楽と職業の関係や、個性と金と権力を発揮するにはそれぞれ義務と自制心が必要とか今でも通用するおもしろいことをいってる。

というわけでまとまってないが、お茶もある程度細かい所作から、茶事まで変えるべき形式が多数取り残されてしまっているような感じがします。でお裏さんのあぐら茶道もある意味前衛だろうか。。